Saturday 24 December 2011

戯れ訳『ボヘミアの醜聞』1


シャーロック・ホームズは彼女のことを、いつも「あの女(ひと)」と呼んだ。実際の名前で呼ぶところを見たことはほとんどない。その人の存在ひとつが、彼女の属する性を代表するに足りるかのようだった。
アイリーン・アドラーに対して、ホームズがたとえほのかであれ恋心を抱いていたとは思えない。あらゆる感情、殊に恋愛感情というものは、冷たく精緻で均整のとれた彼の精神とは相容れないものだった。ホームズは論理的思考と観察眼にかけては地上最高の機械と言っても良いほどだったが、恋人としてはまるで支離滅裂であろうと思われた。愚弄と軽蔑をもってしか、やさしい感情を語る事が出来ないのである。
普通の人間にとって、そうした感情は決して悪くはない…人の動機や行動を見抜く力は弱められてしまうが。しかしホームズのような訓練された理論家にとって、それは彼の精神を無意味に乱すだけである。細心の注意を払って入念に構築された彼の精神世界は、そのような感情の侵入によって支障を来してしまう。繊細な機器に入り込んだ砂粒、高性能レンズについたひび割れ、それらでさえ、恋のような強い感情が彼のような人間に及ぼす影響にはかなわない。
しかし、そんなホームズにもたった一人だけいたのだ、「そのひと」が。それが今は亡きアイリーン・アドラーであり、必ずしも芳しくない評判で伝えられるその女性であった。

その当時、ホームズとは疎遠であった。私の結婚がなんとなくお互いを隔てて行ったのだ。
私はあまりに幸せであった。誰かを養う立場になるのも初めてだった。にわかに家庭人となった私は、注意の全てを自分の家庭に向けていた。
片やホームズはその漂泊する魂でもってあらゆる社会的形態を憎悪し、ベーカー・ストリートの住居で書物に埋もれる生活を送っていた。そして、高揚する気持ちとコカインの間を行ったり来たりしていた。犯罪の研究には相変わらずきわめて熱心であり、高い知性と稀有な観察力で手がかりを挙げ、警察が迷宮入りと決めつけた事件を片っ端から始末していた。
彼の噂は私にもかすかに伝わってきた。トレポフ殺人事件でオデッサに召喚された話、トリンコマレーに済むアトキンソン兄弟の悲劇で彼の果たした役割・・・そしてオランダ王室の一件では、彼は細心にかつ見事に使命を果たしたということだった。
無論そんなことは新聞を読む者なら誰もが知っている。しかしそれ以外に、かつての友であり同志であった男の消息を聞く事は殆どなかった。

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