Sunday 25 December 2011

戯れ訳『ボヘミアの醜聞』3


彼がそう言い終わらないうちに馬のひづめの音と車輪が角を曲がる音が聞こえ、間もなく玄関の呼び鈴が鋭く鳴った。ホームズは口笛を吹いた。
「二頭だな」彼は窓に近づいて外を見た。「やっぱりそうだ。瀟洒なブロアム型馬車に馬が二頭。美女だぞ。一頭150ギニーは下るまい。ワトソン、もしこの事件に何も見るべきところがなくても、金だけはありそうだ」
「じゃあそろそろ行くよ、ホームズ」
「どうしてだい。そこにいてくれよ。きみがいなきゃ、僕はボズウェルを失ったジョンソンも同じだ。約束する、この事件は面白くなるよ。見逃す手はない」
「しかしきみの依頼人が・・・」
「気にするな。僕はきみの助けが必要かもしれないし、それは彼だって同じさ。さあ来たぞ。頼むから座って、ワトソン、その肘掛椅子に。そしてきみの注意をありったけ僕たちに注いでもらいたい」
重くゆっくりとした足取りが階段を上り、通路を渡って部屋の前で止まった。ドアがノックされた。うるさく、高圧的な音だった。
「どうぞ」とホームズが言った。
入ってきたのは二メートルもあろうかという大男だった。胸板は厚く、太ももはヘラクレスのように逞しかった。豪華な衣装を身につけていたが、英国では悪趣味とも取られかねない豪華さだった。アストラハン産の重厚な革を使ったダブルのコートは袖口と前見頃に切り込みが入っていた。その上に濃い青の外套を羽織っており、裏地は燃えるような赤い絹だった。そして首元に大きなエメラルドをつけ、外套の留め具にしていた。長靴はふくらはぎの真ん中あたりまで来る長いもので、柔らかそうな茶の毛皮で縁どられていた。彼の全体的な印象は野性的な豪奢とでも言うべきものだった。
彼はつば広の帽子を手に持っていた。そして顔の上半分、頬骨あたりまでを黒い仮面で隠していた。仮面は部屋に入る直前に着けたものらしく、手でまだ触っていた。彼の顔下半分から察するに、強い個性の持ち主のようだった。厚く垂れさがった唇、長くて丸みのない頬からは、頑固なまでの意志の強さが見てとれた。
「手紙は受け取ったかね?」男は威圧的な声で言った。明らかなドイツ語訛りがあった。「訪問すると書いておいたが」男はどちらがホームズと判じ兼ねたらしく、私たちを交互に見た。
ホームズが返事をした。「どうぞお掛け下さい。こちらは友人で助手のワトソン博士です。時々、好意で事件の手伝いをしてくれるのですよ。どうお呼び申しましょうか?」
「フォン・クラム伯爵だ。ボヘミアの貴族だ。この男、君の友人ということだが、名誉を重んじ分別をもち、この極度に重要な案件を任せてもよい人物なのだろうな?そうでなければ、ぜひ君ひとりと話したいが」
私は立ちあがったが、ホームズに手首を掴まれ、椅子に押し戻された。
「二人でなければお受けしません。彼に対しては、私に対するのと同じように、なんでも話してくださって結構です」
伯爵はその大きな肩をすくめた。「では始めねばなるまい。まず、これから話す事を二年間極秘にすることを約束してほしい。二年経てば、事の重要性も薄れるだろう。現段階では、これは全ヨーロッパの歴史を変えてしまう可能性すら秘めている」
「お約束します」とホームズが言った。
「私も同じく」
伯爵は続けた。「この仮面については容赦してもらいたい。私を雇ったある高貴な人物が、私の顔を君に知られることを望んでいないのだ。それから、フォン・クラムという名は私の実名ではない」
「そうでしょうね」ホームズがそっけなく言った。
「一触即発の局面なのだ。これが巨大スキャンダルに発展し、ヨーロッパ王家の一つを窮地に陥れることのないよう、細心の注意を払わねばならない。はっきり言えば、代々ボヘミア王位を継承してきたオムシュタイン家に関わる一大事なのだ」
「そうでしょうね」ホームズは雑作もないといった風に呟きながら椅子に座り直し、瞳を閉じた。
伯爵は明らかな驚きの色を見せた。そして、たった今ヨーロッパで最も明敏な判断を下すことができ、最も精力的に活動できる人物であるとみえたにちがいない男のものうげな、無気力な態度を見た。
「もし陛下がこのまま、勿体ぶった話し方をお続けになるなら」ホームズは言った。「僭越ながら申し上げたいと思いますが」
陛下と呼ばれた男は椅子から跳び上がった。明らかに動揺したらしく、せかせかと部屋を歩き回った。しばらくすると男は自暴自棄な素振りを見せ、仮面をかなぐり捨てた。「そうとも」彼は叫んだ。「私は王だ。身分を偽るなんてばかなことだ」
「まったくですな」ホームズが返した。「陛下がボヘミア王、カッセル-フェルスタイン大公、ヴィルヘルム・ゴットライヒ・シギスモンド・ フォン・オムシュタインその人であるという事は、陛下がこの部屋に足を踏みいれられた時から明らかでしたから」
「しかし、理解してもらいたい」王と呼ばれた男はもう一度座り直し、広く白い額を手で撫でつけながら言った。「私は自分自身で行動するということに慣れておらん。しかもこの件はあまりに扱いが難しいので、誰に託すにしてもその者が私の意のままに動いてくれなければ困るのだ。このためにわざわざプラハから、身分を隠してやってきたのだぞ」
「では、お話し下さい」ホームズはそう言い、また目を閉じた。
「簡潔に話すと事実はこうだ、五年ほど前ワルシャワに長期滞在した折、とある女性と近づきになった。アイリーン・アドラー、その筋では有名な人だ、君も知っていよう」
「博士、僕の目録をみてくれないか」ホームズが目を閉じたまま呟いた。長年、ホームズは事件に関わった人間や事物をまとめて目録を作る習慣を持っている。一瞬で思い出せない人や物に出喰わしたときは、その目録を見ればよいわけだ。今回はヘブライ人の宗教指導者と、深海魚についての論文を書いた軍隊の司令官の間に彼女の経歴を見つけた。
「さて、見てみよう」ホームズが言った。「1858年ニュージャージー生まれ。ふむ。コントラルト歌手。スカラ座での公演。ほう。ワルシャワ王立歌劇場のプリマドンナ、そうか。オペラ歌手は引退、ロンドン在住・・・なるほどね。陛下、察しますにこの女性と昵懇になり人目につくと困るようなお手紙を書かれて、今はそれを取り戻したいと熱望されているのですね」
「その通りだ。しかしどうやって・・・」
「極秘に結婚されたというようなことは?」
「それはない」
「法的な書類や証明書はないのですか?」
「ない」
「分かりませんね。ではこの女性がその手紙を恐喝やその他の悪事に使おうとしても、その手紙が本物だと証明する手立てはないのではありませんか?」
「筆跡は?」
「簡単に真似できますよ」
「私専用の便箋だ」
「盗まれることだってあるでしょう」
「私専用の封蝋だ」
「偽造ですな」
「写真もある」
「買ったんでしょう」
「私達二人の写った写真だ」
「おやおや、それはいけませんな。ずいぶんと思慮のない事をされました」
「のぼせあがっていたのだ」
「御身を著しく危険にさらされた」
「当時はまだ皇太子だった。若さゆえの過ちだ、今はもう三十になったが」
「何としても取り返さねばなりませんね」
「手は尽くした。みな失敗だ」
「金額が足りないのでは?」
「彼女は売らん」
「では盗んでは?」
「これまでに五回試みた。私の手の者が彼女の家に二回押し入った。他にも、彼女の旅行中に荷物を奪ったことが一回。彼女を待ち伏せたこと二回。いずれも失敗だ」
「手がかりになるようなものは何も?」
「皆無だ」
ホームズは笑った。「それはまた、手こずらされたものですね」
「私には大問題なのだ」王は憮然として言い返した。
「仰せの通りです。それで、彼女は写真をどうしたいと?」
「私を破滅させたいのだ」
「どうやって?」
「私は結婚を控えている」
「そのように伝え聞いております」
「スカンジナビア王の第二息女であるクロチルド・ロスマン・フォン・サクスメニンゲン王女だ。彼女の一族の厳しい戒律は知っているだろう。彼女自身が非常に繊細な魂の持ち主なのだ。私の行動に少しでもやましい点があれば、この結婚は白紙となるだろう」
「アイリーン・アドラーは何と言っているのです?」
「先方にその写真を送りつけると言っている。本気だろう。彼女が送ると言えば必ず送る、私には分かる。君は彼女を知らんかもしれんが、鋼鉄の精神を持っているのだ。美しい女だが、腹の据わり方は男でも敵わないくらいだ。私が他の女性と結婚するとなったら、彼女はどんな手を使ってでも邪魔しに来るだろう。それがどんな手であろうと、な」
「その写真がまだ送られていないと断言できますか?」
「できる」
「なぜ?」
「彼女は婚約が正式発表される日に送ると言っている。来週の月曜日だ」
「ではまだ三日ありますな」ホームズはあくびをしながら言った。「幸運です。今、緊急を要する事件が一、二ありまして。陛下はしばらくはロンドンに滞在なさいますね?」
「フォン・クラウン伯爵の名でレンガムに宿を取っている」
「結構です、では進捗状況を手紙でお知らせ申します」
「ぜひそうしてくれたまえ。心配で何も手につかないからな」
「お支払いの方は?」
「好きなだけ」
「確かですか?」
「あの写真を取り返してくれるならわが領土の一部をくれてやってもいい」
「とりあえず、当座の資金が必要ですが」
王はセーム革の鞄を外套の下から取り出し、テーブルの上に置いた。
「金貨が300ポンドに、紙幣が700ポンド分ある」
ホームズは手帳に領収証を走り書きし、王に手渡した。
「それで、マドモアゼルの住所は?」
「セント・ジョンズウッド、サーペンタイン・アベニュー、ブライオニー・ロッジだ」
ホームズはそれを書きつけた。「最後にもう一つ」彼はたずねた。「その写真はキャビネ版ですか?」
「いかにも」
「承知しました、それでは失礼します、陛下。まもなく良いお知らせができるものと存じます。ワトソン、今日はどうも有難う」王室の馬車が車輪をきしませながら通りを遠ざかってゆくのを聞きながら、ホームズは付け足した。「差支えなければ明日の午後3時、寄ってくれないか。この件についてちょっとお喋りがしたいから」

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