Sunday 25 December 2011

戯れ訳『ボヘミアの醜聞』6


彼の言葉が終わらないうちに、馬車の灯りのにぶい光が通りの角を曲がってこちらへ届いてきた。上等な仕立てのランドウ型馬車で、ブライオニー・ロッジの戸口で止まった。馬車を見て、通りの隅にたむろしていた男の一人が駆け寄り、扉を開けようとした。あわよくば小銭にありつけると思ったのだろうが、同じことを考えたらしい他の男に突き飛ばされた。口論が始まった。そこへ2人の男がやってきて、口論しているうちの一人の加勢をした。すると今度はハサミ研ぎ職人がやってきて、もう一人のほうの肩を持ち、大声で騒ぎ始めた。それは殴り合いへと発展した。
ちょうどその時、アイリーン嬢が馬車から下りてこようと一歩踏み出した。彼女はたちまち殺気立った男達に取り囲まれた。あるものは殴り、あるものは棒きれを振り回している。ホームズは彼女を助けようと駆け出した。しかし彼女に近寄るやいなや、アッと声を上げて地面に倒れ込んだ。彼の顔は血で真っ赤になっていた。それを見た途端、争っていた男達は一斉に逃げ出した。代わりに、乱闘を見ているだけで参加しなかった比較的身なりのいい男達が、彼女と負傷した男に手を貸そうと集まってきた。アイリーン・アドラー(今やこの名字ではなくなったが)はやっとの思いで玄関口まで行った。階段を上がりきり、通りに向かってふり返った彼女の姿はみごとな美しさで、玄関ホールの灯りにその輪郭をあかるく照らしだされていた。
「気の毒に。怪我はひどいのかしら」彼女が言った。
「死んでますよ」と数人の声が答えた。すると別の声が、
「いや、まだ生きてる。でも病院まではもたねえかもな」と言った。
「勇敢な人だね」と群衆の中の女性が言った。「その人がいなけりゃ、あのお姫さまの財布も時計も全部なくなってたろうよ。あの強盗団は手段を選ばないからね。おや、息を吹き返したんじゃないかい」
「このまま通りにうっちゃっておくわけにいきませんぜ。中へ入れてやってもらえませんか?」
「もちろんよ、居間へ運んであげてちょうだい。ちょうど良いソファがあるわ。さあ、こちらへ」
ホームズはゆっくりと厳かにブライオニー・ロッジの内部へ運び込まれ、居間へと寝かされた。私は一部始終を自分の持ち場である窓のそばから見ていた。明りがともった。日よけが上がったままだったので、私は横たわるホームズをよく見ることができた。
彼が自分の演じている役割について、良心の呵責を感じたかどうかは分からない。しかし、アイリーン嬢が負傷した男を介抱するいかにもやさしい仕草、その真ごころのこもった態度を見るにつけ、私はこのように身も心も美しい女性を欺こうとしている自分が心底不埒で恥ずべき存在のように思えた。しかし、ホームズと事前に打ち合わせた内容を今になって放棄するのは、それこそ最大の裏切り行為であろうと考え直した。私は腹をくくり、外套の下に隠し持っていた発煙筒に手をかけた。とにかく、彼女を傷つけようという計画ではないのだから、と自分に言い聞かせた。むしろ彼女が誰かに危害を加えようとしているのであり、我々はそれを阻止しようとしているのだ、と。
ホームズがソファの上で体を起こした。そして、息苦しそうな素振りをした。召使のひとりが走って行って窓を開けた。ほぼ同時にホームズが手を挙げるのが見え、その合図と共に私は発煙筒を居間に投げ込んだ。そして叫んだ。
「火事だ!」
それを言い終わるか終らぬかのうちに、騒ぎを見物していた人々が全員、紳士も馬丁も男も女も口ぐちに、
「火事だ!」
と叫んだ。濃い煙がもくもくと立ち上がり、部屋から窓の外へと流れ出した。誰かが素早く動いた気配がした。しかし次の瞬間にはもう、ホームズがあれは偽の警報だと、皆に言い聞かせているところだった。私は群衆の間を抜け、通りの隅まで移動した。10分後には、ホームズは私の腕を取っていた。私達はすみやかに騒ぎの輪から抜け出した。彼は押し黙って足早に歩いた。やがて、エッジウェア・ロードへ抜ける人気のない脇道に辿り着いた。
「じつにすばらしかったよ、博士」ホームズがようやく口を開いた。「これ以上ないというくらいの出来だ。すべて上々だ」
「で、写真は手に入れたのか?」
「隠し場所は分かったよ」
「で、どうやって知ったんだ?」
「彼女がおしえてくれた。そうなると言ったよ」
「まだ分からん」
「謎めかして見せすぎたかな」彼は笑った。「簡単なことだよ。通りにいた連中はみんなぐるだ。今夜のために待機していてくれたんだ」
「それはまぁ、分かったが・・・」
「騒ぎが始まった時、僕はこっそり赤い染料を手に隠し持って連中めがけて走って行った。そして倒れ、自分の顔を手でひっぱたき、哀れな被害者のふりをしたんだ。古い手さ」
「まぁ、それもそうだろうが・・・」
「僕は運び込まれた。彼女は僕を招き入れるよう仕向けられたんだ。見捨てるわけにもいかないものね。そして居間に寝かされた。僕が一番怪しいと思っていた部屋だ。写真は居間か、彼女の寝室のどちらかにあるはずだ。僕は居間だとふんでいた。僕が空気がほしいと訴えたので、窓を開けざるを得なくなった。だから君が予定通りの行動に出られたわけだ」
「それにはどういう意味が?」
「それこそが一番大きな意味を持っていたんだよ。家に火が付いた。彼女は本能的に、一番大事なもののところへ駆け寄ったんだ。それはあらがえない衝動だ、僕も一再ならず世話になっている。ダーリントンのすり替え事件や、アーンズワース城の一件などでね。母親なら子供に駆け寄るし、若い娘なら宝石箱という具合さ。さて我々のお姫さまの場合には、我々が探しているものがまさに彼女の一番大事なものだったのだよ。火事の号令は百点満点の出来だった。煙と人々の叫び声に、さすがの彼女もうろたえた。彼女は鮮やかに反応したよ。呼び鈴の紐の上にスライド式の羽目板が取り付けられているんだが、その後ろに窪みがあってね、そこに入っていた。彼女は一瞬でそこへ飛んで行った。僕は彼女が写真を引っぱり出すのを目の端で確認した。火事はデマだと聞くと、彼女はそれを元に戻した。そして発煙筒を見つけると部屋から飛びだし、そのままどこかへ行ってしまった。僕は起き上がり、丁寧に詫びを言って、邸から退散したというわけさ。写真をどこか安全な場所に移すべきかと思ったが、彼女お抱えの御者が部屋に入ってきて僕をじろじろ見るので、まずはそこから離れることにした。ちょっとした気の焦りがすべてをフイにしてしまうからね」
「それで、どうするんだ?」私は聞いた。
「捜査はほぼ終了だよ。明日、僕は王様のお伴をしてブライオニー・ロッジへ行く。よければ君も来るといい。僕らは居間に通されて、女主人を待つように言われるだろう。しかし彼女がやって来る頃には、僕らも写真も消えてなくなっている。我が王におかれては、写真を取り戻すことができて満足至極だろうよ」
「明日は何時に?」
「朝8時だ。彼女はまだ起きていないだろうから、動きやすい。それに、早いに越したことはない。彼女は結婚した。生活や習慣がどのように変化するのか分かったものじゃないよ。王にすぐ電報を打つとしよう」
私達はベーカー・ストリートに辿り着き、家のドアの前に立った。ホームズが鍵を探している時、誰かが背後を通り過ぎながらこう言った。
「こんばんは、ホームズさん」
その時舗道には数人の通行人がおり俄かに判じ兼ねたが、その声は外套に身を包み、早足で歩いている細身の若者から発せられたようであった。
「どこかで聞いた声のような気がするが・・・」ホームズはほの暗い通りを見据えながら呟いた。「さて、どこの悪魔の囁きだったかな」

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