Sunday 25 December 2011

戯れ訳『ボヘミアの醜聞』7


私はその晩はベーカー・ストリートに泊まった。翌朝パンとコーヒーで軽い朝食を摂っていると、ボヘミア王が慌ただしく部屋に入ってきた。
「やったのか!」王はホームズの肩をつかんで揺さぶり、燃えるような眼で見つめながら言った。
「まだです」
「しかし望みはあるのだな?」
「はい」
「では、来い。待ち切れん」
「馬車を呼びませんと」
「私の馬車が外で待っている」
「よろしゅうございます」
そうして私達は、ふたたびブライオニー・ロッジへ向かうこととなった。
「アイリーン・アドラーは結婚しましたよ」
馬車の中で、ホームズが告げた。
「結婚だと!いつだ?」
「昨日です」
「相手は?」
「ノートンという英国人の弁護士です」
「愛しているとはとても思えん」
「私はそう願っていますが」
「なぜだ?」
「陛下にとっては、その方が後々ご心配の種が減るからでございます。彼女が夫を愛していれば、陛下のことはもう忘れるでしょう。そうなれば、今後陛下を脅かすこともないわけですから」
「それはそうだが、しかし・・・いや。彼女が私に釣り合う身分でなかったのだけが残念だ、前代未聞の女王になったことだろうが!」
王はむっつりと黙りこんだ。そのまま、馬車はサーペンタイン・アベニューに到着した。
ブライオニー・ロッジの玄関は開け放たれており、年老いた女性が戸口に佇んでいた。彼女は私達が馬車から下りるのを、冷笑をたたえて見守った。
「ホームズ様の御一行とお見受けしますが」彼女が問うた。
「私がホームズだ」答えながらホームズは彼女を見た。物問いたげな、というよりはむしろ、ぎょっとしたような顔つきだった。
「まあやっぱり。奥様から、そろそろお訪ねになるころだと聞いておりまして。奥様は旦那様とお発ちになりました。チャリングクロス駅5時15分発の列車で、大陸へ向けて」
「なんだって!」ホームズは悔しさと驚きのあまり、よろめきながら後ずさった。「イギリスを出たと言うのか?」
「はい。二度とお戻りになりません」
「それで書類はどうなったんだ?」王が吠えるように言った。
「何も残っておりません」
「この目で確かめるさ」ホームズは召使を押しのけ、居間へと乗り込んだ。王と私が後に続いた。家具は引っかきまわされ、棚という棚、引き出しという引き出しが床に散らかっていた。出発の前に急いで荒らして回ったかのようだった。ホームズは呼び鈴の紐に駆け寄った。羽目板を外し、後ろの窪みに手を突っ込んで、一枚の写真と手紙を取り出した。それはイブニングドレスに身を包んだアイリーン・アドラー個人の写真だった。手紙の表には「シャーロック・ホームズ様。次に必要になる時まで、お預けします」とあった。ホームズは封を切り、我々三人は手紙を読み始めた。日付は昨夜の真夜中となっており、やや乱れた筆跡でこのように書かれていた。
『親愛なるシャーロック・ホームズさま。見事なお手際です。私はすっかり騙されてしまいました。火事騒ぎが起こるまで、つゆほども疑っていなかったのです。そこで初めて罠だと気づき、考え始めました。貴方のお噂は数ヶ月前から聞かされておりました。ボヘミア王が探偵を雇うとしたら、貴方を置いて他にないだろうと。ベーカー・ストリートのご住所も把握しておりました。それですのに、例のものの在り処をあっさりお教えしてしまいましたね。私は肝に銘じておりましたのに、あんなに心やさしい、愛すべき牧師様が何かを企んでいることまでは見抜けませんでした。ところで、今ではお分かりでしょうが、私は女優としての訓練を受けております。若者になりすますことなんて、雑作もないんですの。この特技のおかげで何度も窮地をすり抜けてきました。私はあの時、御者のジョンをやって貴方を見張らせ、二階に上がって歩きやすい服装に着替え、貴方が家をお出になったと同時に階下へ降りたのです。
私は貴方をベーカー・ストリートまで尾行いたしました。そして貴方が間違いなく私の考えているお方、名にしおうシャーロック・ホームズその人であると確認したのです。途端にいたずら心が湧きまして、軽率にもご挨拶などしてしまいました。そしてその足で、テンプルの夫の許に参ったのです。
私達は話し合って、すぐさま行動すべきだと結論いたしました。このように手強い方が相手では、それが一番の方法です。明日、貴方がお訪ねくださる頃には、我が邸は空っぽになっているでしょう。写真に関しましてはご心配なきよう、ご依頼の方にお伝え下さいませ。私はずっと良い伴侶を得て、このうえもなく幸せでございます。王様はかつてある女をひどく不当に扱われたかも知れませんが、その者が王様の邪魔をいたすことは今後一切ございません。ただ我が身のお守りとして、そして王様が万一手荒いことをなさろうとした時に心強い武器となってくれるでしょうから、写真はこの身に携えてまいります。その代わり、別の写真を残してゆきます。王様がもしかしたら、その女を思い出すよすがとして下さるかもしれませんもの。本当にそう思っております。親愛なるホームズさまへ。
心をこめて、アイリーン・ノートン・アドラー』
「なんて女だ。まったく、なんて女だ!」この書簡を読み終わった時、ボヘミア王がそう叫んだ。「あの女がいざとなったらどれほど素早いか、そして大胆であるか、君に言わなかったか?彼女の身分が私相応であったなら、全国民に愛される女王となったことだろう!かわいそうに、我々は次元が違いすぎたのだ」
「確かに、まったく次元が違うようにお見受けいたしました」ホームズは冷淡に言った。「陛下、ご依頼の件を思うような成功裏に終わらせることが出来ず、恐縮でございます」
「それどころか!きみ」ボヘミア王は叫んだ。「これ以上ないと言っていいくらいの成功だ。彼女は約束を絶対に守る女だ。写真は火にくべて燃やしたと同じくらい安全だ」
「そう言って頂いて何よりです」
「大変な借りができたものだな。何でも欲しいものを言うといい。この指輪はどうだ」ボヘミア王は蛇の形をした翠玉の指輪を外して手の平に置いた。
「陛下、それよりも頂きたいものがございます」
「言ってみろ」
「その写真です」
王は驚いたようにホームズを見つめた。
「アイリーンの写真だって!もちろんだ、それが欲しいなら」
「陛下、感謝いたします。それではお開きと致しましょう。謹んでお別れを申し上げます」
ホームズは一礼し、王が差し伸べた手に一顧だにすることなく踵を返した。そして私達は帰途に着いた。

そしてこれがボヘミア王国を脅かした大いなる醜聞の顛末であり、我らがシャーロック・ホームズの綿密な計画は完全に裏をかかれる結果となった。彼はかつて女性の賢さについてよく皮肉を言ったものだが、それ以来ふっつりとやめてしまった。そしてホームズがアイリーン・アドラーの、或いは彼女の写真について話す時はいつでも、「あのひと」という最大の敬意を込めた言い回しをするようになったというわけである。

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