Sunday 25 December 2011

戯れ訳『ボヘミアの醜聞』4


私は翌日の3時きっかりにベーカー・ストリートを訪れたが、ホームズはまだ戻っていなかった。家主の女性によれば彼は今朝八時過ぎに出かけたまま戻っていないということだった。私は何時間でも待つつもりで、暖炉のそばに陣取った。私はすっかりこの事件に魅了されていた。過去に私が記録した二つの事件と比べれば、この事件はとりたてて不気味でも、珍奇でもなかった。しかし、今回の依頼人と来ては一国の王なのである。その事実に加え、ホームズの透徹した洞察力や鋭い分析力を目の当たりにする愉しみもあった。複雑に絡み合った謎を瞬時に解き、それでいてわずかな取りこぼしもない。そんな仕事ぶりはよそでは滅多にお目にかかれない。彼は常勝の男であり、失敗するかも知れないとはいささかも思わなかった。
4時に差し掛かる頃、ようやくドアが開いた。入ってきたのは酔っ払いの馬手であった。乱れ放題の髪にあごひげを生やし、赤ら顔、身なりもひどいものだった。わが友の変装の才を重々承知しているつもりでも、それがホームズだと確信するまでに三度は見直さなければならなかった。
私に軽く頷いて寄越し、彼は寝室へ消えた。5分後に出てきたのはツイードのスーツに身を包んだ、上品な、いつものホームズだった。ポケットに手を入れ、暖炉の前で脚を伸ばして、彼は急に笑い出した。
「いや、まったく!」彼は叫ぶように言ってさらに笑った。笑い過ぎて息が詰まった。椅子の上でのけぞり、へなへなになるまで笑い続けた。
「一体なんだい?」
「おかしくって!僕が今日やったことといったら。それがどういう結果になったか、きみには決して想像がつかないだろうよ」
「つかないね。あのアイリーン・アドラーの動向を探っていたとは思うが。たぶん、家にも行ったのかな」
「その通り。だが、事の顛末は存外に奇妙なものだったよ。まあ待て、話すから。今朝8時過ぎに僕は、仕事にあぶれた馬手の出で立ちでここを出た。厩舎の辺りをうろついていたら同業者の連帯感で皆が同情してくれて、あっと言う間に仲間になった。聞きたい情報が何でも手に入ったよ。ブライオニー・ロッジはすぐに見つかった。小洒落た二階建ての邸宅で、家の裏手には庭があり、通りに面して建て増ししてあった。玄関には頑丈な鍵がかかっていた。広い居間が右手にあった。家具調度は立派なもので、床まで届く長さの窓には我が大英帝国の誇る窓締め金具がついていたが、無論子供でも開けられる。ここではたいした発見はなかった。せいぜい、馬車置き場の屋根から廊下の窓に 跳び移れることが分かったくらいだ。僕はこの家を一巡りし、あらゆる視点から観察したが、それ以外に興味を引くものはなかった。
それで通りへ出てぶらぶらと歩いていたら、庭を囲っている壁沿いに狭い路地が伸びていて、そこに馬屋があるのが分かった。にらんだ通りだ。僕は馬の掃除をしていた男達の手伝いをして、2ペンスの駄賃と、一杯のビールと、手巻たばこを二本手に入れた。そしてミス・アドラーの情報もね。もっとも、そこに辿り着くまでに聞きたくもない近所の人達の噂話をたっぷり聞かねばならなかったが」
「それでアドラー嬢に関しては何を?」わたしは尋ねた。
「彼女は近在の男達の心をすっかり虜にしている。ボンネットがお似合いの、世界で最もたおやかで優美な存在というわけだ。人々は内輪で『サーペンタインのほう』と呼んでいるらしい。彼女の暮らしぶりはつつましやかで、たまに音楽会へ出て歌い、毎日5時に車で出かけ、7時きっかりに帰ってきて晩餐を取る。それ以外に出かける事は殆どない、音楽会の時は別だがね。訪問者は男が一人だけ。でも彼の姿はよく目撃されている。濃い色の肌をした、颯爽とした美男子で、一日一回は必ず訪れる。多い日は一日に二回だ。名前はゴドフリー・ノートン。インナー・テンプル(ロンドンに四つある法曹院の一つ)の人間らしい。御者をやっている男達と友達になると色々いいことがある。ノートンを何度もサーペンタイン・アベニューから乗せているからよく知っているんだ。さて、僕は聞きたいことをすべて聞いてしまうと、ブライオニー・ロッジに取って返した。そして、これからの作戦について考えた。
ゴドフリー・ノートンは明らかにこの事件における重要人物だ。彼は弁護士だ。悪い予感がする。アドラー嬢と彼の関係は?彼はなぜ何度もサーペンタイン通りを訪れているのか。彼にとって彼女はただの依頼人なのか、友人か、もしくは愛人か?依頼人なら、彼女は例の写真を彼の手に渡しているだろう。それ以外の関係なら、その可能性は薄い。このままブライオニー・ロッジで探索を続けた方がいいのか、それともインナー・テンプルの弁護士の部屋に忍び込んだ方がいいのか?判断の分かれ目だ。僕の調査範囲が拡げられたのだ。いちいち細かい話で退屈させていたら済まないが、僕の考えた事を全て話しておく必要があるんだ。そのうち分かるから」
「すっかり引き込まれて聞いているよ」私は答えた。
「僕がまだ迷っていた時、一台のハンソム(一頭立て二人乗り馬車)がブライオニー・ロッジに止まり、急ぎ足で一人の男が降りてきた。凛々しい顔立ちで、肌の色は濃く、ワシ鼻で口髭をたくわえていた。例の男に間違いない。彼は慌ただしい身振りで御者に待つようにと叫び、ドアを開けた召使を殆ど無視してずかずかと上がり込んだ。まるで自分の家のようにね。
彼は邸の中に30分ほどいた。僕からは見えにくかったが、居間を歩き回っているのが窓越しにわずかに見えた。腕を振り回し、興奮した様子で何か喋っていた。
彼女の姿はまったく見えなかった。やがて出てきた彼は、より一層狼狽していた。馬車に乗り込みながら彼はポケットから金時計を取り出し、食い入るように見つめた。『超特急で頼む』彼はそう叫んだ。『最初にリージェント・ストリートのグロス&ハンキーに行って、その後エッジウェア・ロードの聖モニカ教会だ。20分で行けたら半ギニーやるぞ!』
彼らは走り去った。もしかして追いかけなかったのはまずかったかと、僕が思いを巡らしていた時、通りの向こうからきれいな小型のランドウ(四輪馬車)がやって来た。だが御者は上着のボタンが外れていたし、ネクタイは耳にかかったまま、馬具も留め金がしっかり留まっていないありさまだった。その馬車が止まるか止まらないかのうちに彼女が玄関から猛突進してきて乗り込んだ。ちらっとしか見なかったが、花のような面差しだった、男に死んでもいいと思わせるほどの。
『聖モニカ教会へやってちょうだい、ジョン』と彼女は叫んだ。『20分で行けたら半ソブリンあげるわ』
これは追いかけねばと思った。後から追いかけるか、彼女の馬車の後ろに張り付いていくかと考えていた時、流しの馬車がやってきた。御者は僕のみすぼらしい恰好に驚いたようだったが、僕は有無を言わせずに乗り込んだ。
『聖モニカ教会へ』僕は言った。『20分で行けたら半ソブリンだ』正午25分前だった。何が起ころうとしているのかは明白だった。
僕の馬車は速かった。想像以上の速さだったが、彼らの方がまだ速かった。僕が着いた時、彼らの馬車は教会の玄関に繋いであって、馬からは湯気が立っていた。僕は支払いを済ませて教会へ入った。中にいたのは僕が尾けてきた2人だけで、他には誰もいない。僧衣をまとった牧師が戒めるように彼らに話しかけていた。彼ら三人は祭壇の前に立っていた。僕は端の通路を、偶然立ち寄っただけの道楽者のようにのんびり歩いた。すると驚いたことに祭壇の三人が僕の方を振り返り、ゴドフリー・ノートンが必死の形相でこちらへ駆け寄ってきた。
『ああ、助かった』彼は言った。『君でいい。こっちへ、さあ来たまえ』
『何ですかい?』と僕は聞いた。
『いいから来るんだ、後3分しかない。3分経ったら違法になる』
僕は半ば引きずられるようにして祭壇まで行った。そして訳が分からぬままに、耳元で囁かれる言葉をオウム返しに唱えた。そして、何かの保証人にさせられた。つまりこうだ。僕は、未婚女性であるアイリーン・アドラー嬢と、これまた独身者であるところのゴドフリー・ノートン君の結婚式を粛々と手助けしていたんだ。すべてはあっという間だった。ノートン君とアドラー嬢は両側から感謝の言葉を雨とふらすし、牧師は僕の面前でにっこり笑っているし、あんなに自分が道化じみて思えたのは生まれて初めてだったよ。それを思い出すだけで、あんなに笑えてしまって。おそらく彼らの婚姻許可書が略式だったので、保証人なしに結婚式を挙げる事を牧師が拒否したのだろう。そこへ僕がのこのこ現れたものだから、新郎新婦にとっては外へ飛び出して手当たり次第に介添人を探すという手間が省けたわけさ。花婿は僕にソブリン金貨を一枚くれたよ。だから不思議な巡り合わせの思い出に、懐中時計の鎖にでも繋いでおこうと思ってね」

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