Sunday 25 December 2011

戯れ訳『ボヘミアの醜聞』2


1888年3月20日の事であった。私は開業医として仕事を再開しており、往診の帰りにたまたまベーカー・ストリートを通りかかった。よく見慣れたドアの前まで来ると、私は求婚時代や緋色の研究などの暗い事件を懐かしく思い出した。途端にホームズの顔が見たくなり、彼があの常人にはるか及ばない能力を駆使する様子を再び見たいと思った。
彼の部屋は明るくてらされていた。私が見ている間だけでも、彼が二度窓辺を横切るのが分かった。背の高い、すらりとした影法師が日よけに映ったからである。彼は勢いよく、しかし熱心に考え込みながら部屋を往復していた。頭は深く垂れ、両手は後ろで組まれていた。私は彼の気分や癖をよく覚えていたので、彼の行動が何を意味しているかすぐに分かった。仕事に入ったのだ。薬でつかのまの幻覚に酔うことをやめ、代わりに新しい難題を得て嬉々としているのである。私は呼び鈴を押し、かつて私の一部であった部屋へと足を踏み入れた。

ホームズはいつでもそうだが、私を見ても特に態度を変えなかった。だが、喜んでいたのではないだろうか。ほとんど喋らなかったが、優しい眼差しで私に椅子をすすめ、葉巻のケースを送って寄越し、酒の入った飾り戸棚と隅の暖炉を指し示した。そして火のそばにたち、何か自問自答しているような彼特有の物腰で私を見た。
「きみは結婚向きだったらしいな」彼は言った。「7.5ポンドは太っただろう」
「まさか。7ポンドだよ」と私は答えた。
「これでも控えめに言ったつもりだがね。それに、また医者の仕事を始めたのか。聞いていなかったな」
「どうして分かったんだ?」
「見れば分かるよ。しかも最近ずぶ濡れになったろう。そして君の使用人は世にも不器用な上に気が利かないらしい」
「おいおい」私はさえぎった。「まいったな。僕は魔女と話をしてるのか、世が世なら火あぶりにされるぞ。確かに僕は野歩きに出かけて、大雨に降られたよ。木曜日のことだ。だけど当然服は着替えたし、君がいまだにそれを言い当てられるのは不思議だね。使用人については、彼女の名前はメアリ・ジェーンと言うんだが、確かに気が利かない。あまりにひどいので、妻が最後通告を出したところだ。どうして分かったんだい?」
ホームズは含み笑いをし、その長くて神経質そうな手を擦り合わせた。
「別に簡単なことだがね」と彼は言った。「君の左の靴の内側、ちょうどマッチを擦るところだが、革の部分にほぼ平行に6つの切り傷がついている。誰かが乾いた泥をそぎ落とそうとして、しごく乱暴に靴底の周囲をひっかいた証拠だよ。つまりそのぐらい泥がつく天候の中を君は歩いたということだし、その泥を取るために靴に穴まであけてしまう君の使用人は優秀とは程遠いというわけさ。まぁ、ロンドンじゃ標準的といえるがね。君の仕事についてだが、君は部屋に入ってきた時ヨードホルムの匂いをさせていたし、君の右手の人差し指は硝酸銀で黒く変色しているし、それにシルクハットの右側が膨らんでいる。聴診器を隠しているんだろう?医者でなかったら一体なんだというくらいだ」
説明されてみると、私はことの単純さに思わず吹き出してしまった。「種明かしを聞くとばかみたいに単純で、僕でも出来そうだと思ってしまうよ。それでも一連の推理の訳をいちいち聞いてみないことには、まるで見当もつかないんだからな。僕にだって、君に負けないくらいの観察眼はあると思うんだがね」
「目はあるね。確かに」ホームズはそう言いながら葉巻に火をつけ、肘掛椅子にどさりと座りこんだ。「ただ、見ているだけで観察していない。これが大きな違いだよ。たとえば、この部屋に上がってくる時の階段だ。君も何度も見ただろう」
「もちろん」
「何度見た?」
「回数かい?何百回だろうよ」
「じゃあ、階段が何段あるか知っているか?」
「数えたことないよ」
「ほらね。見てはいるけど観察していないだろう?僕が言いたいのはそこだよ。階段は17段だ。見て、更に観察している人間ならそれを知っている。さて、それはそうと君は事件といえば興味を持って、いつかは僕のささやかな功績の一つ二つを記録して発表してくれたこともあったっけね。それならこいつも興味があるだろう」
ホームズは、テーブルの上に広げられていた厚い薄桃色の便箋をこちらに向かって滑らせた。「さっき届いたばかりなんだ。読んでみてくれたまえ」
日付はなく、署名も差出人の住所もない手紙だった。
『今夜7時45分に訪問者がある。その紳士はある深刻な事件について貴君の助言を得たいと思っている。貴君が某王家に果たした役割をみて、本件を信頼して依頼するに足る人物と認めるものだ。本件は極めて重要である。これは誇張ではない。貴君の評判をじゅうぶんに吟味した上で依頼する。7時45分、必ず自宅にいてもらいたい。訪問者は仮面で顔を隠しているかも知れないが、無礼と取られること無きよう』
「これはまた、謎だらけの手紙だな」私は言った。「どういう意味だ?」
「まだ何とも言えない。情報が不足している状態で無理に仮説を立てるのはよくない。仮説にあてはめようとして、知らないうちに事実を曲げてしまう恐れがあるからね。しかし、この手紙自体はどうだ。何か気付く事はないかい?」
私はその手紙を注意深くしらべた。そして、わが友の要領をまねてこう言った。
「これを書いた男はおそらく資産家だろうな。二束三文じゃ買えないような紙だよ。変な堅さがある。かなり丈夫そうだね」
「変な、ね」ホームズが答えた。「そこだよ。これはイギリス製の紙じゃない。明かりにかざしてみたまえ」
言われた通りにしてみると、紙にある文字が織り込まれているのがわかった。それぞれ”Eg”、”P”、”Gt”と読めた。
「何だと思う?」とホームズが聞いた。
「製造者の名前だろう。名前と言うより、頭文字かな」
「そうじゃない。Gtはゲゼルシャフトの略だ。ドイツ語の『会社』で、Gtは英語で会社をCoと略したりするのと同じものだよ。Pはもちろん紙のことだ。最後にEgは何か。ヨーロッパの地名辞典をみてみよう」
ホームズは書棚から分厚くて茶色い本を取りだした。
「エグロウ、エグロニッツ・・・あったこれだ、エグリア。ドイツ語圏のボヘミアにある町だ。カールスバートの近傍。『ヴァレンシュタイン将軍死没地として知られ、ガラス製造・製紙などの産業が有名』はっは、これをどう思うね?」
彼は煙草を深く吸い、満足そうに紫煙をくゆらせた。瞳は輝いていた。
「じゃあ、ボヘミア産の紙ということだね」私は言った。
「その通り。そしてこの手紙を書いたのはドイツ人だ。文章をよく見たまえ。フランス人やロシア人なら、動詞の使い方にもう少し気を払うよ。つまり、このドイツ人の要求は分かった。彼はボヘミアの紙を使い、顔を隠して登場したがっている。そういうことだ。さて、どうやら彼が来たらしいぞ。これで謎が解けるかな」

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